終戦間際の1945年5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部で米兵の捕虜を使った生体実験が行われた。世に言う「九大生体解剖事件」。墜落したB29の搭乗員8人に対し、海水を使った代用血液を注入するなどのさまざまな生体実験の手術が行われ、捕虜たちは死亡した。戦後70年間タブー視され、多く語られることのなかった「負の歴史」。生体実験に関わった医師や看護師は、すでに全員が事件についてほとんど語らぬまま亡くなってしまった。しかし、ただ一人、そのとき医学生として生体実験手術の現場に立ち会った証言者がいる。東野利夫さん(89)である。東野さんは戦後、福岡市内で産婦人科医院を営みながら、国内外で関係者に取材を重ね、多くの壁にぶつかりながらも、事件と向き合う地道な活動を続けてきた。
事件は、関係者や私たちに一体何を残したのか。私たちは何を反省し、何を語り継ぐべきなのか。番組では、東野さんの証言や亡くなった関係者・遺族への取材を通して、「九大生体解剖事件」からの70年という歳月の意味を見つめる。
<九州大学生体解剖事件 ウキペディアより 部分>
https://goo.gl/NoFWuI
【経緯】
太平洋戦争末期の1945年5月、福岡市を始めとする九州方面を爆撃[1]するために飛来したアメリカ陸軍航空軍のB-29が、熊本県・大分県境で第三四三海軍航空隊所属の19歳の学徒兵、粕谷欣三一等飛行兵曹が操縦する戦闘機紫電改の体当たりによって撃墜された。機長のマーヴィン・S・ワトキンス(Marvin S. Watkins)中尉以下、搭乗員12名が阿蘇山中に落下傘降下した。3名は現地で死亡[2]。生き残ったのは9名であったが、東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とする命令により、機長のみが東京へ移送された。残り8名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は裁判をせずに8名を死刑とすることにした。このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。
生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮および執刀は石山教授が行ったが、軍から監視要員が派遣されており、医学生として解剖の補助を行った東野利夫は実験対象者について「名古屋で無差別爆撃を繰り返し銃殺刑になる」との説明を受け、手術室の入り口には2名の歩哨が立っていたという。(以下略)
【生体解剖】
銃殺刑の代わりに行われた、生存を考慮しない臨床実験手術だった。医学会の権威だった石山教授をはじめ、15人の医学部関係者・西部軍参謀の立会いのもと行われた。この手術は当時としては先進的なもので、ほぼ目的を達成し手術は成功したとされる[4]。
企画者 : 佐藤吉直大佐(西部軍)、小森卓軍医(西部軍)、石山福二郎(九州大学教授)
実験場所 : 九州大学 解剖実習室
実験期間 : 1945年5月17日から6月2日
【実験対象者】
ウィリアム・F・フレドリック少尉
デール・プランベック少尉
ジョージ・M・ベーリィ少尉
ビリー・J・ブラウン軍曹
テッディ・デングラー軍曹
チャールズ・パーマー軍曹
ロバート・B・ウィリアム軍曹
ジョン・C・コールハウエル軍曹
【実験目的と方法】
・実験手術の目的は、主に次のようなものであった。
・不足する代用血液の開発のための実験
・結核の治療法の確立のための実験
・人間の生存に関する探求
・新しい手術方法の確立のための実験
・手術方法は、主に次のとおりであった。
・血管へ薄めた海水を注入する実験
・肺の切除実験
・心臓の停止実験
・その他の脳や肝臓などの臓器等の切除実験
・どれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るための実験
【取調べの調書録】
私は手術の目的について、捕虜の肺から銃弾を取り除くためと聞いていました。ところが肺全体が切り取られました。捕虜の右の肺を取り除くと、大量出血が始まり捕虜は10分後に死亡しました。
GHQ取調官:なぜ肺を切除したのか?
石山先生の手術の狙いは新しい手術方法を試すことだったと思います。
— 鳥巣太郎助教授
捕虜の腕に海水が500ccほど注入されました。この時捕虜はまだ生きていましたが10分ほどして捕虜は死にました。
GHQ取調官:その手術は必要だったのですか?
この手術はどれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るためのものだったので必要なかったと思います。
— 筒井シズ子看護婦長
先生に反対するなんてことは考えられません。私達は大学を辞めたあとも一生医者として石山先生との関係が続くのです。また当時軍がやることに口を挟むことなんて出来ませんでした。
— 平尾健一助教授
GHQ取調官:手術は軍の命令で行ったのですか?
その質問には答えられません。
GHQ取調官:あなたが実験手術をしようと決めたんじゃないですか?
手術は実験的な手術ではないのでその質問には答えられません、私が行った手術のすべては捕虜の命を救う為だったと理解していただきたい。
GHQ取調官:私達は手術がなぜ行われたのかすべて知っています。
あなたは私からありもしない答えを聞き出そうとしている。
— 石山福二郎教授
【戦後の手記・回想録】
日本国土を無差別爆撃し無辜の市民を殺害した敵国軍人が殺されるのは当然だと思った。ましてたった一人の倅をレイテ島で失った私にすれば、それが戦争であり自然のなりゆきだと信じていた。
— 平光吾一教授(当時の解剖実習室管理者)の手記より
そのころの日本人は激高心をアメリカに対して持っていた。もちろん医者が人命にかかわる人体実験をしたことは悪いが、そこを間違わせるのが戦争であり、いかに戦争というものが人命を預かる人間でもここまで狂ったというか、そういうことが二度とあってはならないが、戦争時代にあったという事実、軍が良いと言ったからとやったという言い訳はもう今後は二度と出来ない。
— 東野利夫(医学生として解剖に立ち会った医師)の談話
【事件の問題性】
当時、法理論および倫理的に本事件が問題とされたのは、
・捕獲した爆撃機の搭乗員への戦犯の規定が日本側の軍法会議の判決を経ずに行われたこと。
・実験内容が被験者に対し回復の可能性への考慮が極めて低い水準のものであったこと。
・死亡に至った被験者の埋葬を怠ったこと。
などが挙げられ、実際に上記の内容についてGHQ側より起訴を受けている。
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